考えることを怠っていた

 更新を怠っていた。



 考えるということを怠っていたので更新していなかった。(あと積みゲーの消化も。)
 考えない日々は、主観においてはとても健やかで伸びやかだった気がする。というのは、健康に気を使う必要がなかったからだ。嫌なことも考えなくてよかった。良いこともさほど考えず。なので、”(心身について)健康を保たなくてはいけない”という、楽しく生きるためには比較的重要視されるべきルールに縛られる必要がなかった。健康的な在り方というものに上も下もなかったので、不健康さと言うものが存在しなかった。過ごしている間も割と楽しかったと思う。
 ただ、スケジュール帳はわりと緻密に埋められていたのだけれど、自分の頭の中に残っているのはそのスケジュール帳ともやっとした感覚だけだった。中身がない。考えない日々に残るのは達成感のない”やりました”だけだった。

 考えるという作業をするように戻ったので、上記の日々はものすごく不健康に見える。元から平均体重を大きく上回っていた体重も増えたのだから、間違いなく不健康だった。また、伸びやかでもなかった。中身がないからペシャリとつぶれていただけだった。平坦だった。

 元から、他人に「考えすぎだ」と言われる節があった。確かに小さいころから頭をこねくり回すのは好きだった。しかし、未だに”思考にピリオドを打つ”ということができないでいる。
「これはああで、あれで、こうだけど、でも他方面から考えると、こうなるから、こうで、そうなるから、それで、でも元に返すとああなるし、とはいえ自分の中ではこうで、これは譲れないし、でもあの人は……」
 頭の中で考えるときには、センテンスが長すぎて、止まるところを知らない。結論が見えていても、自分に屁理屈をこねたりして、きれいな決着を望まない。誰かに読ませるものじゃないから良いにしても、自分自身で読み返すということができない。大抵、それらの考えは、不意に話しかけてきた誰かの声や、睡魔や、別の思考によって中途半端にフェードアウトしていく。

 考えることによって、不健康になったように感じることが多多あった。自分の思考と言うものはゆっくりと、あるいは急速に落ち込みながら回転を続けているようなものだった。脳みそがゆっくり下に降りていくスパイラルの形をしているのではないかという感じだった。(それって少しかっこいい。)このきんもちわる~いスパイラルにピリオドを打つことができれば、きんもちわる~い不健康スパイラルもある程度は改善されて、プリッとした白子みたいな形になるんじゃないかなと思う。

 久々にブログ更新しておこうかななんてブラウザを開いてキーボードを打ってみたけれど、この作業こそがピリオドを打つ練習にはちょうどいいのかもしれない。ちゃんとピリオドを打てたかどうかは、読み返した後の自分が考えてくれよう。