ブログ開設

 ブログを開設した。それなりの量の文章をまとめて書きたいと思ったからだ。趣味であるゲームのプレイ記録や、イラストを含めた創作、自分の住んでいる札幌の街について、などなど、一塊に置いておける場所は必要な気がした。Twitterでは記しておいた情報があっという間に流されて、一体どこにいったのやらと浜辺で海を眺めるような日々を送るようになってしまうから、ちゃんと漂着物を展示できる場所がほしかった。そんなわけで作られた。相変わらずものぐさなのは治っていないから、この1エントリーで終わってしまうかもしれないのだけれど。


 しかし、身構えて文章を書くとひどく堅苦しくなるし、妙にキザっぽい文体になってしまうのは悩みだ。自分で読んでいて気分の良いものではないから、避けたいとは思っている。おそらく、「今書ける限りの、読めた文章にしよう」という心掛けのせいで、少し時間を置いてみると当時の背伸びした自分のちっぽけっぷりに呆れてしまうのだろう。
 成長が早いのか、あるいは書いている今に客観性が欠けているのか。後者だと感じる。

 タイトルをつけても、いやに衒った雰囲気が出てしまう。他者から見たらなんてことはないのかもしれない。これも、タイトルをつけようとするときに脳みそを振り絞ろうとするから自分の背丈が見えてしまうのが原因かもしれない。肩の力を抜いて「ラーメン食べました」とか「ぼうけんのしょ1ばん」とか書いておけば気にすることもないのだろうけれど、そうやってぼんやりと漏らした言葉に自分の素の部分が現れてしまうようで、矮小さにうんざりする。

 人からどう見られるかを気にしてばかりいる。「自覚していますよ」と書かれたお札を免罪符にしようとしている。「自覚していますよ」は開き直りの言葉に聞こえる。
 どうあがいても、どんなに話を広げても、自分の大きさというのは変わらないものだと思う。綿ゴミを丸めたら小さな粒のようになるが、自分が知識を見せびらかすときの様子はまさにそのようだと例えたい。文章を書くときは、ある程度自分がちっぽけであることを諦めなくてはいけないと思う。絵にしても。ゲームにしても。


 実は、と言うまでもなく、他の人にもあるだろうと思いたいが、自分には過去に開設したブログがいくつかある。勿論ハンドルネームは違うのだが、中学の三年間・高校の初めのころの文章は今でも少し検索すれば(自分なら)簡単にたどりつけてしまう。
 ネットスラングの応酬と、「わたしウツです」とでも言いたいようなぼんやりとしたポエム群。笑うと健康になるというけれど、これなら知り合いの幾人かを健康で幸せな体にしてやれるかもしれない。とはいえ、自分にとってはただただ心臓病のリスクを高めそうな光景に過ぎない。

 だから、今回はもう少しリスクの低めな、青臭いながらも穏やかな文章にとどまればいいなと思っている。タイトルも「ラーメン食べました」方式で続けていきたい。
 まあ、この方針が失敗しても、後々どこかの友人の健康で幸せな体の素になるかもしれないし。