自分のできる領域

 絵を描くことのむなしさについて。


 自分が、絵を描くことのおおもとの理由って、やっぱり褒められるのが嬉しいのが大きいし、特に幼稚園のころから運動は好かなかったから、他人と比較した際に優越感に浸れる程度には得意だったってこともそれに拍車をかけていたと思う。

 ヒトではなく人間として生きるというときに、やっぱり人と人との間柄って避けて通れないものだなと。社会の中ではぐくまれ、社会の一員となることを要請されながら生きていく(そして、そういった在り方を望む)っていうのは割と自然な流れなんじゃないかなあと思う。環境によりけりだけどね。
 そうなると、やっぱり居場所があるっていうことは本当に強い安心感。年齢が上がり、次のステージに乗せられていくにつれて、所属しなくてはいけない社会の規模もどんどん大きくなって、どんどん自分が粒になっていく感じがある。そういう時に、「あなたには価値があります」と取り分けてもらえるのは大変に助かる事なのだ。
 だから、褒められるってとっても嬉しい。自分は、自分の「できる」を見せつけるために生きてきた気がする。

 何か、他の人が手を付けないことをして場所を得るってのが今までの常とう手段だった。奇を衒っている自覚は強かったけれど、それが自分のやり方だと思ってとにかくヘンなことをしようとしてきた。
 で、果たしてそれを邪魔とされて居場所を失ってしまったとたんに、自分のできることのなんて微々たるものかと、当然のことに失望している。
 例えば、「華道を嗜んでいます」と言えば、普通の人からはたいそう立派なものに映ってしまうこともあるのだけれど、実際に華道の世界をのぞいてみればその人の実力は芥子粒にも満たない、なんて状態。
 自分は誰も手を付けないことに小指程度でさわりながら「これが私のできることです!」などとほざいていたわけだ。なんて浅はかな。

 話題を戻す。自分のお絵かき欲求と見せびらかし欲求なんてのは、当時周りにいた他の人間よりつま先が数センチ先に出ているか否かってところで、格の違いなんてものを見せつけたつもりになって悦に浸っていたところに端を成すってことかしら、と。これが、最近むなしさを感じることの一つ。

 もう一つ。自分にはこれと言って表現したいものがないのではなかろうかということ。技法を採用する理由、画材を選択する理由、そして、モチーフを決定する理由。どれもなんてことはなくて、ぼんやりとした筆の動きで、「なんとなくうまく見えりゃいいや、評価してくれたまえ」ってなもの。
 絵を描くことは好きだし、やっぱり評価されたいし、見てほしいし、そのためにはうまく描きたい……と思っている反面、何を描きたいという明確なものがない。承認欲求のためだけに作品を作っている。
 これって、ものをつくる人間(とは名乗れた者じゃあない現状だけれど)としてはとんでもなく悪い事だなあと思う。少し前までは、少なくとも表現したいものがあった気がするのだけれど。今はとにかく、甘えに甘えている。

 作品を生み出すことって、自分が受容してきたものを練ったりなんなりして新しい形で打ち出す、「世界変換器」みたいなところがあるとおもうのだけれど、如何せん現在の自分は変換器としてのひどい機能不全に陥っているのではないかと思う。

 云々と述べてみて。
 だがしかし、空っぽの絵の具のチューブはいくら絞っても何も出てこないわけで、いったん補充期間だと思うよりないのかなあとも思う次第。このままゴミ箱に入るのか、それとも。