続・創作について
「安米野通」の創作活動を一時休止することについて。
Twitterの方での宣言が先でしたが、この度「安米野通」の創作を一度休止することにしました。
そう思ってこのブログを漁ると、前回の更新では安米野通をなんとかしたいと言っていたので、過去の自分への裏切りにも取れますが。
とりあえず、一連のツイートはこちらです。大意はここにある通りです。
ファイルに挟まっていた過去絵の9割くらいを捨てました。一時の決心だからあとで後悔するのかもしれませんが、今は一枚一枚眺めるどころか、ほぼペラペラと飛ばすようにめくっても、全然心に残らなかったというか、感心することもなかったので、そのままゴミ袋にぶち込みました。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
安米野通についても、自分の理想郷と言っていましたが、(詩的な表現になるのは不本意だが)自分の楽しかった頃にすがりつくための愛玩人形たちの箱庭にすぎなかったなあと、少し寂しさまで覚える感じなので、このままゆっくりと廃れていくかもしれないと思ってます。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
アイデア自体は気に入っているので、もっとニュートラルな気持ちで作りこめるようになったら、またサビを磨いて形作っていくかもしれないです。今のところは、自分自身がそこに至る状態にないので、難しいかと。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
内面に関わらず創作を続けていくってのは自分には難しいので、今の精神状況では創作活動の管理はできないです。雑草も伸びはて、埃もたまり、といった状況ではあるので、ちゃんといちど柵を閉じた方がいいのかなと。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
今の自分は全くもって内向的で、安米野通を売り出すような形で制作をしていた時の外向性は持ち合わせていません。
再び外向的な気持ちで自分自身の世界をかき出したいという時、再び自分の歩みと安米野通の歩みが揃った時……そういうときに、もう一度挑んでみようかな、と思います。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
ということで、一度安米野通の一次創作はおやすみすることにします。一部の方にはキャラの名前まで覚えていただいたりした中で、こういう決断にどのような感想を持たれるか(まあ多くの方は素通りするでしょうが……)というのは少し考えるところではありますが。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
これを機にフォロー等解除してくださって構いません。僭越ながら、リムーブはブロック→ブロック解除の手順をお願いしたく思います。
「創作活動」自体は形を変えて続けるつもりなので、お付き合いいただける方は今後ともよろしくお願いしたく思います。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
自意識過剰で考えすぎの節があるのが自分自身の特性であり、甚だ面倒臭い人間であるなあという自覚はあるんですけど、まあそういう人間なんだなって上でお付き合いは計画的によろしくお願いします。暗い人と一緒にいると自分まで暗くなってしまうってのは事実だと思うんですな。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
とりあえず、自分の歩む時間と歩幅を合わせながら色を付けてくれそうなタイプの創作対象・手段をのんびーり吟味しようかなーって感じです。
— モヨヒコ (@myhc0) 2015, 6月 22
報告は以上です。
以下付随して思ったこと。考えとしてはまとまっていないので、メモ程度に少し目を通してもらえたら面白いかなとか。
前回の更新によると、自分の作るものなんてのは、自分が歩んできた軌跡とそこから見えたものへの考察と共鳴ではないかということですが。
正直、今の自分は全くのメクラで、自分からものを掴むってことがほとんどできてません。
創作っていうのは、ベクトルは様々でも、多くが能動的であると思っています。(それを仕事として要請される人間は受動的な創作も多いかもしれないし、「共鳴」によって頭や手が勝手に動かされることもあるとは思いますが)しかし、自分はここ1年と半年ほど、ずっと受動的な生活ばかり繰り返しており、自分から選択して挑戦するということがありませんでした。そういう状況なので、自分の思う創作活動と自分自身の内情ってかなり乖離していると感じます。
ところで、創作で、特に交流活動を繰り返していると、周りからの要望や期待が膨らんでいき、自分の表現したかったものと他人に望まれるものが離れていくことが"稀によくある"と思うのですが…
(いわゆる交流企画の場合は、望み望まれ共鳴が共鳴を呼び…というのがあるのでまた別パターン 。それはそれで素敵です。)
はじめに自分が描きたかったものを描き上げた達成感と、他人に要請されたものを描いて褒められた時の達成感というのは、これらどちらが大きいかなど考えるのは野暮とも思いますが、手軽なのは間違いなく後者だと思います。
そのサイクルがうまく回っているうちはいいとも思いますが、いずれそれが枷となってしまった時、それは本当に硬く重たいものに違いないのではないかと思います。はなから交流や他者からの反響を糧にしているなら不都合はないしブレも少ないのでしょうが。
受動的な、というより攻めと守りのバランスが後者に傾いた時の創作活動は、私にとっては枷になるのではないかなということですね。防具って重たいですし。
と、まあ、ごたごた言いましたけど別に剛も柔もそれぞれに良さがあるわけなので何かを批判する意図はないです。えーと。
私の場合、安米野通は気付いたら一つの枷になってました。期間ばかり伸び伸びとしていて、創作自体の伸びってほとんど見れませんでしたし。友人に何を描いて欲しいかなんていうムチャブリをして心を満たそうとしたり、かなり(友人にも自創作にも)申し訳ないことをしました。だから、閉園です。
こうやって自創作を過去のものにすると、愛がないとか、無責任のクズとか、まあどんな言葉でも降り注ぐのでしょうが、実情このような考えにどのような感想があるのかなあってのはめっっちゃくちゃ気になります。私は、創作活動への思いはそんな弱っちくないとは思っていますが、それも驕りかもしれません。でも、嫌いではないんですね。自分のもつ世界が大きく姿を変えたわけではないのは、前回更新時のイラスト(過去イラストのサルベージ)を描いた時には痛切に感じていました。やっぱりあの風景が好きですしね。
とはいえ、この宣言をするたった今まで、安米野通は捨てられていたのかなと正直なところでは思いました。しかし、ちゃんと一時閉園のような形で錠をかけた結果、とてもすっきりしています。むしろ、錠をかけたことで一つの箱に収まり自分の手の届く位置に来てくれたと思っています。
しばらくは自分のエネルギーと相談しながら、やりたいことをのんびり探そうと思います。応援してくださった皆さん、ありがとうございました。